仮説・論説 449 朝鮮戦争の謎 ②
- white-eagle1958
- 2024年11月21日
- 読了時間: 3分
2024.11.21
さて、朝鮮戦争の謎 ②を書きます。既に①で疑問を出して置きましたが、何故南韓国で虐殺事件が多発したのか?です。時系列的に並べてみますと
・1948年4月3日 済州島 4.3事件
在朝鮮アメリカ陸軍司令部 軍政庁支配下にある南朝鮮、李承晩政権下の済州島で起きた島民蜂起に伴い、李承晩支持派が1954年9月21日までの期間に引き起こした、一連の島民虐殺事件。
犠牲者は少なくとも、1万4200人。推定では2万5千人とも言われています。
此の為島では脱出が続き、人口が日本独立時の28万人から3万人にまで激減しました。
・1948年10月19日 麗水・順天事件
済州島4.3事件の鎮圧の為出動命令が下った、全羅南道麗水郡駐屯の第14連隊所属の南労党員が、反乱を扇動。此れに隊員が呼応し、部隊ぐるみの反乱となりました。
反乱は隣の順天郡に飛び火した為、李承晩大統領は直ちに鎮圧部隊を投入。
10月27日に反乱部隊は鎮圧。此れを含め、非武装の民間人8千名が殺害されたと言われています。またこの事件を契機に、多くの人が日本へ密航、逃亡し、在日韓国人、朝鮮人となりました。
・1949年12月24日 聞慶虐殺事件
大韓民国、慶尚北道聞慶郡にて韓国軍が共匪に協力したとして、非武装の住民88人を虐殺した。
・1950年6月27日 25日に朝鮮戦争が勃発した後のこの日、朝鮮人民軍がソウルに進行。李承晩大統領は、保導連盟員・南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令を出し、同日にソウルを脱出。韓国軍・警察は釜山まで後退する一方、保導連盟に登録していた人民を危険分子として大田刑務所などで大虐殺を行った。
1960年の四月革命直後の報告書によれば、この犠牲者は114万人に上るとしています。
・1950年8月17日 303高地の虐殺
韓国慶尚北道漆谷郡倭館邑の丘(303高地)にて、釜山橋頭堡の戦いの最中に北朝鮮軍に捕らえられたアメリカ陸軍の捕虜41人が処刑された事件
・1951年2月7日 山清・咸陽虐殺事件
慶尚道山清郡、咸陽郡で引き起こされた事件。
犠牲者は12の村民で705名。内386名が確認されている。
内訳は女性197名、男性189名、(子供147名)
・1951年1月6日~1月9日 江華良民虐殺事件
韓国政府が江華島で非武装の島民を212人~1300人を虐殺したとされる事件
・1951年2月9日~2月11日 居昌事件
慶尚南道居昌郡にある智異山で韓国軍が共産主義パルチザンを殲滅するため、堅壁清野作戦(焦土作戦)を行った。民間人719名が犠牲となりました。
歴史に記されている事件ですが、この他にも在るかもしれませんね。
これ等の事件はいずれも朝鮮戦争の前や最中に起きたものです。ですから戦争の犠牲者とも言えるでしょう。特に保導連盟事件は、為政者の責任を痛感させられます。
朝鮮戦争の経緯を観て行くと、朝鮮のほぼ全域が戦場になったと思われます。
この時代朝鮮はほぼ全土が破壊されたのでしょうね・・・
朝鮮人の苦しみが判る様な気がします。するとこの時期多くの朝鮮人が国内、国外へと避難民になったでしょう。日本にも戦火を逃れにやって来た人々がどれ程いたのか・・・
朝鮮戦争は形式上まだ続いています。まだ終戦に至っていないのです。早いとこ終戦に持っていければいいですね。
グレートゲームは終わりだ!
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