仮説・論説 432 アラブの春とは何だったのか?
- white-eagle1958
- 2024年10月22日
- 読了時間: 4分
2024.10.17
突然ですが、ここでアラブの春とは何であったのかを考察してみたいと思います。
現在アラブの春を謡った国々は、挫折し、混乱や内戦の泥沼に陥り、アラブの冬とも言うべき状況のようです。どうしてこんな風に成ってしまったのか?
アラブの人々の落胆が目に見えるようです。
そこでもう一度アラブの春を検証してみるのも意味のある事だと思います。
そもそもアラブの春とは、2010年から2012年にかけて、アラブ世界において発生した前例のない大規模反政府デモを主とした騒乱の総称です。(ウィキペディアより)
それは2010年チュニジアのジャスミン革命から始まりました。
以後のアラブの動きを列挙してみますと
・チュニジア 2010.12.17 チュニジア東部の街、シディ・ブジドで野菜・果物販売業 モハメド・ブアンジが警察に商品を没収され、焼身自殺。 此れを切っ掛けにチュニジア全土に抗議のデモ、暴動が発 生しアリー大統領は、サウジアラビアに亡命。
23年に及ぶ政権は崩壊しました。
・エジプト 2011.01.25 大規模反政府デモ発生。
2011.02.11 エジプト最高評議会が権力を掌握、ムバラク大統領は亡命 し30年に渡る独裁政治が終了しました。
・リビア 2011.02.15 人権活動家の弁護士釈放要求のデモを切っ掛けにカダフィ 大佐の退陣要求のデモにまで拡大。
2011.02.20 デモは首都トリポリに至りました。政府は此れを弾圧。欧米
の軍事介入を招き、事実上のリビア内戦となりました。
2011.02.24 首都トリポリ陥落。NOTOとリビア国民評議会は、国権 を掌握。42年に及ぶカダフィ政権が崩壊しました。
・イエメン 2011.02.03 サーレハ大統領の退陣を求める大規模反政府デモが発生。
2012.12.21 暫定大統領選でハーディーが当選。サーレハ体制は終焉を
迎えました。
この他にもシリアやアルジェリア、サウジアラビア、モロッコ、ヨルダンにも様々な影響が出た様です。
しかし、この後はいずれも上手く行かず、「アラブの春」が目指すものとはかけ離れてしまい、「アラブの冬」とも言うべき状況に成ってしまったようです。
何でこの様な状況に成ってしまったのか?
「アラブの春」とは一体何であったのか?を検証してみましょう。
此処からは、私の全くの個人的見解である事を明記して置きます。
一つはっきりしているのは、「アラブの春」は、本当の革命ではなかったと言う事です。
本来革命が成立しますと革命前、革命後で大きく市民の状況が変わらければなりません。
市民の暮らしが良くなったとか、自由が拡大するとか・・・
それが無いと言う事は、革命の担い手が変わっていなかったと言う事になります。
では、何の為に「アラブの春」は起きたのか?
思い起こして頂きたいのですが、長期独裁で集中するものが2つあります。
それは、権力と金です。
我が国でも豊臣秀吉はお金を沢山もっていましたし、徳川政権でも同様です。
徳川埋蔵金は今でも話題になっていますよね?
独裁者に権力と金が集中するのは歴史からでも明らかなのです。
今回「アラブの春」の舞台と成った所は、いずれも長期独裁政権でした。
権力は移りましたが、彼らが残したであろうお金はさて何処へ消えたのでしょう?
「アラブの春」の目的は最初からこれだったのではないでしょうか?
彼らが残したお金は、本来国民に還元されなければならなかったはずです。
しかしそれは在りませんでした。
残念な事ですね・・・
恐らく多額のお金がどこかへ持ち去られたのではないでしょうか?
では、何でこんな事が起きたのか?
私の推測では、2008.09,15に起きた投資銀行リーマン・ブラザーズの経営破綻により発生した世界的金融危機、所謂リーマンショックにて大損した連中が引き起こしたものではないかと考えています。自分の所に発生した大損害を、独裁者が貯めこんだお金で穴埋めしたのではないかと思います。
これはかなり大掛かりな組織の仕業である事は間違いないでしょう。
恐らく世界権力者(1国の運命までも牛耳る権力者)ではないかと思います。
彼等は世界を股にやりたい放題ですから、彼等を何とかしなければなりませんね。
恐ろしい事です。ではまた。
松戸のシャーロックホームズを舐めるなよ!
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